日本大正10年辛酉(西元1921年)9月23日,王清祈出生在台灣台南州虎尾郡。王清祈的生平不詳,只知道是這個務農家族裡唯一受教育,且愛好美術與繪畫的男孩。
昭和18年(西元1943年),日本在太平洋節節敗退,據說王清祈決定加入志願軍,成為陸軍軍伕。與剛出生的唯一獨生女短暫相處一個星期之後,大約在10月左右,王清祈就前往南太洋的新幾內亞(ニューギニア)了。獨生女名喚王春枝,寓意春天的枝蕊,代表著「希望」。
王清祈於昭和19年12月30日(或31日)陣亡於西新幾內亞的Yakati(ヤカチ)。目前尚不瞭解他從軍一年裡到底發生什麼事情?猜測,他應該是隸屬於日本帝國陸軍,由司令官豊島房太郎中將所指揮的第二方面軍第二軍(勢 - いきおい)。昭和19年7、8月約12000名イドレ(Idore)轉進部隊開始向ヤカチ地區退卻,王清祈究竟是戰死、病死、亦或是餓死,並不清楚。
王清祈最後那一段日子是如何度過的,由元陸軍中佐飛田中廣的「ニューギニア玉砕の記」的描寫,或許可以知道一些:
昨日も、今日も、明日も、雨、雨、雨、前人未踏の原始林は雨に明け、雨に暮れ た。 そこには削り絶った岩山続き、落ち込んだら最後、胸もとまでも没する重湿地帯 があり、鉄色の腐った悪臭に満ちている。 ・・いつになったら目的地に着けるのかわからないとなると、気力は失われ、疲 労 はは倍加した。しかし、疲れはて、衰え果てても、歩くよりほかに身を救うすべ はなかった。 風に起き、豪雨の中に泥濘を歩み、湿地を這い、峻嶺をよじ登る。 その道なき道は、原始林の底に延々と続き、途中にマラリアや飢餓で斃れた将兵 の 死骸があるいは生々しく、あるいは腐乱し、あるいは白骨と化して点々と横た わっていた。 ・・ある兵は、腐りかけた戦友の傍らに伏し、そのうつろな眼を密林の梢からの ぞ き見える雨雲の動きにこらしていたが、彼はすでに両の眼や鼻のあたりにしつこ く群がる銀蝿を追い払う気力さえ失っていた。蝿は隣の腐燗した屍に群がり、ひょ い、ひょいと生きている幽霊の顔に飛び移っては、また燗れた黒紫色の屍体へ舞い 戻って遊んでいた。 ・・たまたま幾つもの隊が同じ場所で露営する時など、死臭漂う密林の暗黒に、 点々と遠慮がちな焚火が見える。それはまさに「幽霊が焚く鬼火」のように眼に 映っ た。時にその鬼火が白骨を照らし出したときは、それが今にも踊り出そうにさ え思われた。
・・始めの頃は誰しもこのような場所の宿営は避けていたが、やがてそれを気に してはおられなくなった。 「腐乱屍体を抱いて寝る」と云っても過言でない毎日であり、毎夜だった。 ・・八月に入ると、食糧はほとんど尽き、雑草や木の葉、芽等をむしゃむしゃ食 べるほかなくなった。豚皮製の軍靴や図嚢を焼いて炭にし、それをかじる者も出てき た。 インドネシア人兵補たちに人肉喰いが始まった。ただ一人密林を歩いていると、 殺され喰われてしまう事態になってきた。 毎日毎日が餓鬼、畜生の阿修羅地獄であり、その地獄の中でもがき続け、力尽き て斃れ、幽鬼の群れに加わって行く者が日増しに増えて行く。
そして、将校も、兵も、台湾人軍夫も、インドネシア兵補も、何の差別もなく、 マ ラリア、栄養失調、飢餓に斃れ、腐って白骨と化し大地へ帰って行くのだった。 ・・結局は、マノクワリから一ケ月余を費やし、目的地のイドレに辿り着いたと き、当初の一万五千人の兵員は、およそ六~七千人に減ってしまった。
王清祈戰死新幾內亞的消息傳回台灣時,其獨生女才剛滿一歲,後來其妻改嫁,因此其女乃由母親代為養育。其女並未受識字教育,只知道其父於日本時代戰死海外,或許連其父的臉孔亦毫無記憶。西元1988年,王春枝從日本赤十字社得到僅有的、有關王清祈的一份文件,裡面記載著王清祈的姓名、出生及死亡日期、以及戶藉地,這是王清祈在世間23年的證明。然而直到2009年,年邁的獨生女才經由兒女的翻譯,知道其父的姓名及往生日期,拾回了遺忘六十年的名字。
參考文獻
Wikipedia - ニューギニアの戦い
インドネシア文化宮 - Bandara Dai Nippon(15)イドレ
田所寅男 - 南の国の憶い出
永江勝朗 - 地獄のベラウ地峡
飛田中廣 - ニューギニア玉砕の記
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