Thursday, February 26, 2009

陶淵明狂想曲



陶淵明是我個人相當喜愛的文學家,他在中國文學史上也有一定的地位,人們耳熟能響的詩句相當多,例如「採菊東籬下」、「結廬在人境」等等,廣為引用,甚至當作商店招牌;我個人相當欣賞的「閒情賦」可說是中國最美的情詩,雖然昭明太子十分反感,也有人認為賦裡面的美人指的是天子,但我還是把它當作情詩裡的千古絕唱。

大家或多或少認識這位中國古代的名人,但其實還是有一點點誤解,誤解的地方有三點。首先,我們說陶淵明是隱逸詩人,然後將他把當時的清談連結在一起,但其實陶淵明對儒家六經王道是懷抱著遠大的理想,他會寫那些隱逸絕塵的詩賦,有某種程度是懷才不遇的抒寫。

其次,大家說陶淵明不為五斗米折腰、耕讀自娛,感覺好像過著顏回那種安貧生活,但其實陶淵明是資產階級地主,靠佃農的供養就足夠養活一家大小及奴僕,有時候還可以到佃農家遊玩,喝佃農釀的酒,再拿起鋤頭玩兩下,看能否刺激寫作靈感。這在現代的說法叫「樂活」或「慢活」,有錢人吃飽撐著,捐點錢就可以到靈山妙寺去打個禪七、吃頓素食,有益健康。

第三,陶淵明懷抱儒家王道理想,夢想著有朝一日能重現聖王治世,但其實陶淵明並非漢人,他是在地少數民族的谿族人。中國史學家陳寅恪讀〈魏書司馬叡傳〉,記載「中原冠帶呼江東之人皆為貉子,若狐貉類云。巴、蜀、蠻、獠、谿、俚、楚、越,鳥聲禽呼,言語不同,猴、蛇、魚、鼈,嗜欲皆異。江山遼闊,將數千里,叡羈縻而已,未能制服其民。」追查出許多人物,都是南方少數民族,包括陶淵明就是谿(溪)族,而且唐代有名的歐陽修也有南方少數民族血統,因而被譏形貌類猿。這些少數民族大抵屬於被壓迫的下階層種族,唯有藉著漢化,洗去身上野蠻的氣息與外貌,才能站上平等的地位。這在現代的說法叫「帝國殖民」或「種族融合」,假若陶淵明是黑皮膚,大概也會冠上「黑皮膚、黃面具」吧!

我們現在談的殖民主義,主要是針對17世紀以降的歐洲帝國主義與海外殖民,這個時期的殖民活動,最關鍵的特徵有二:一是膚色差異,特別是黑與白的差異,有效、清楚地一眼就可以用種族去區分出統治階層與被統治階層、壓迫者與被壓迫者;二是工業革命後,對於科技的運用,前所未有地擷取殖民地的資源。如果不論這兩項特徵,則殖民行為大抵就是強勢民族以軍事佔領被殖民地,進行拓殖、文化同化、族群融合等行動。

說起來,中國算是有史以來運用殖民最成功的團體,它的成功,有著歷史性的優勢:一是它在前現代就開始向外殖民,有著文明上的優勢;二是被殖民著沒有書寫文字,容易藉著統一的中國文字,予以文明洗禮;三是沒有嚴重的膚色差異,被殖民者容易被清洗成漢族。

開璋聖王是中國南方有名的信仰,陳元光可以說就是北方人向南方殖民的大功臣;以現代基因圖譜分析,可能南方福建、廣東一帶居民是比較偏越族,則現在這些越族後裔,便是在尊崇殖民其祖先的人為聖王(何況尚不知有多少半山協助陳元光開拓越地)。假若1802年交阯的嘉隆帝得以順利地將他的王國稱為「南越」(Nam Viet,意指南方的越地),而非「越南」(意指越地以南),則或許得以名正言順地宣稱擁有對今天福建、廣東、廣西、甚至台灣的支配權吧!

台灣就是殖民成功與否的最佳範例。日本殖民時期,膚色並無差異,日本也擁有文明的優勢(特別是識字教育),究其失敗原因:一是終戰戰敗,失去台灣、澎湖統治權;二是太晚將漢姓改成日姓、將中原祖譜改成台灣祖譜;三是來不及革除內地與島民的區分。結果,歷史走在不同方向,蔣介石成了另一位開璋聖王。

今天,我們會談論日本「殖民」台灣,只是因為它來不及殖民「成功」而已。

參考文獻

貓吉拉 - 華人世界
貓吉拉 - 地域歧視、省藉情結與民族主義
ESIR - 台灣史與基因比對呈現的「台灣人圖像」

Sunday, February 15, 2009

遺失六十年的名字

日本大正10年辛酉(西元1921年)9月23日,王清祈出生在台灣台南州虎尾郡。王清祈的生平不詳,只知道是這個務農家族裡唯一受教育,且愛好美術與繪畫的男孩。

昭和18年(西元1943年),日本在太平洋節節敗退,據說王清祈決定加入志願軍,成為陸軍軍伕。與剛出生的唯一獨生女短暫相處一個星期之後,大約在10月左右,王清祈就前往南太洋的新幾內亞(ニューギニア)了。獨生女名喚王春枝,寓意春天的枝蕊,代表著「希望」。

王清祈於昭和19年12月30日(或31日)陣亡於西新幾內亞的Yakati(ヤカチ)。目前尚不瞭解他從軍一年裡到底發生什麼事情?猜測,他應該是隸屬於日本帝國陸軍,由司令官豊島房太郎中將所指揮的第二方面軍第二軍(勢 - いきおい)。昭和19年7、8月約12000名イドレ(Idore)轉進部隊開始向ヤカチ地區退卻,王清祈究竟是戰死、病死、亦或是餓死,並不清楚。

王清祈最後那一段日子是如何度過的,由元陸軍中佐飛田中廣的「ニューギニア玉砕の記」的描寫,或許可以知道一些:

昨日も、今日も、明日も、雨、雨、雨、前人未踏の原始林は雨に明け、雨に暮れ た。  そこには削り絶った岩山続き、落ち込んだら最後、胸もとまでも没する重湿地帯 があり、鉄色の腐った悪臭に満ちている。  ・・いつになったら目的地に着けるのかわからないとなると、気力は失われ、疲 労 はは倍加した。しかし、疲れはて、衰え果てても、歩くよりほかに身を救うすべ はなかった。  風に起き、豪雨の中に泥濘を歩み、湿地を這い、峻嶺をよじ登る。  その道なき道は、原始林の底に延々と続き、途中にマラリアや飢餓で斃れた将兵 の 死骸があるいは生々しく、あるいは腐乱し、あるいは白骨と化して点々と横た わっていた。  ・・ある兵は、腐りかけた戦友の傍らに伏し、そのうつろな眼を密林の梢からの ぞ き見える雨雲の動きにこらしていたが、彼はすでに両の眼や鼻のあたりにしつこ く群がる銀蝿を追い払う気力さえ失っていた。蝿は隣の腐燗した屍に群がり、ひょ い、ひょいと生きている幽霊の顔に飛び移っては、また燗れた黒紫色の屍体へ舞い 戻って遊んでいた。  ・・たまたま幾つもの隊が同じ場所で露営する時など、死臭漂う密林の暗黒に、 点々と遠慮がちな焚火が見える。それはまさに「幽霊が焚く鬼火」のように眼に 映っ た。時にその鬼火が白骨を照らし出したときは、それが今にも踊り出そうにさ え思われた。

 ・・始めの頃は誰しもこのような場所の宿営は避けていたが、やがてそれを気に してはおられなくなった。 「腐乱屍体を抱いて寝る」と云っても過言でない毎日であり、毎夜だった。  ・・八月に入ると、食糧はほとんど尽き、雑草や木の葉、芽等をむしゃむしゃ食 べるほかなくなった。豚皮製の軍靴や図嚢を焼いて炭にし、それをかじる者も出てき た。 インドネシア人兵補たちに人肉喰いが始まった。ただ一人密林を歩いていると、 殺され喰われてしまう事態になってきた。  毎日毎日が餓鬼、畜生の阿修羅地獄であり、その地獄の中でもがき続け、力尽き て斃れ、幽鬼の群れに加わって行く者が日増しに増えて行く。

 そして、将校も、兵も、台湾人軍夫も、インドネシア兵補も、何の差別もなく、 マ ラリア、栄養失調、飢餓に斃れ、腐って白骨と化し大地へ帰って行くのだった。  ・・結局は、マノクワリから一ケ月余を費やし、目的地のイドレに辿り着いたと き、当初の一万五千人の兵員は、およそ六~七千人に減ってしまった。

王清祈戰死新幾內亞的消息傳回台灣時,其獨生女才剛滿一歲,後來其妻改嫁,因此其女乃由母親代為養育。其女並未受識字教育,只知道其父於日本時代戰死海外,或許連其父的臉孔亦毫無記憶。西元1988年,王春枝從日本赤十字社得到僅有的、有關王清祈的一份文件,裡面記載著王清祈的姓名、出生及死亡日期、以及戶藉地,這是王清祈在世間23年的證明。然而直到2009年,年邁的獨生女才經由兒女的翻譯,知道其父的姓名及往生日期,拾回了遺忘六十年的名字。

參考文獻

Wikipedia - ニューギニアの戦い
インドネシア文化宮 - Bandara Dai Nippon(15)イドレ
田所寅男 - 南の国の憶い出
永江勝朗 - 地獄のベラウ地峡
飛田中廣 - ニューギニア玉砕の記